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素晴らしい動画をありがとうございます。湘南でレストランをやっていたのですが元栄さんが奥様とお子様と3人で毎週来てくださってました。世が世ならの方なのかもしれませんが腰が低く大変な人格者です。今はひと月に一度程度お話しをするくらいになりましたがお子様ラヴのイケメンお父様です。記念館の館長も務められたそうですがTV番組でお堀の水を抜かれたのは知らなかったようでしたー。
素晴らしいご縁ですね!さすが元公爵家の御当主といったところでしょうか。
幕末前に長州藩は莫大な借金と大規模な一揆でピンチな状態で、そうせい公の毛利敬親が藩主に就任して村田清風を登用して藩政改革を行い財政を豊かにして経済力では百万石並みの財力を持って第二次長州征伐前に薩摩藩から海援隊経由で欧米列強から武器を購入し幕府軍に勝利して関ヶ原の復讐をして明治維新を成し遂げた。
そして、賊軍藩石原、板垣、東條らは長州支配体制打破を目指し復讐を試みるも失敗、アメリカ幕府が誕生した。
我是台灣人,長州藩與台灣關係無比深厚!
敬親は本家の血筋を輝元系に戻すためにわざわざ元徳を徳山藩から自分の後継ぎに迎えて毛利家を再び一つに纏めたことを忘れてはいけない
関ヶ原の戦いでの西軍内通は、これ迄輝元公は知らず吉川広家が他家臣と内々に進められたと思ってましたが…。輝元公承知の上の内通と知りました。
吉川広家が毛利の先陣を努める世界線の関ヶ原見てみたいなあ
長州藩は藩主機関制を早期に成立させたから藩主親政なんて殆ど行われていないその象徴が「そうせい侯」
大坂城に詰めていた輝元が秀頼を連れて、関ヶ原に援軍として出張っていれば、関ヶ原の戦いの結果は大きく変わっていただろうに、、、
秀頼、輝元、前田利政、上杉景勝、真田親子が関ケ原にいたら島津も戦ったし秀家も攻め込めたし小早川も寝返らなかった
淀殿が引き留めたと聞きかじりましたが、大阪の陣でも似たことをやっているので、関ヶ原も大阪も戦犯は淀殿なんですよね。
その場では勝っただろう。後、関ケ原で家康を仕留める事ができるか否かで展開が大きく変わるだろう。
両川である、小早川は手を離れ、吉川は徳川に騙された、三本の矢でなくなれば、簡単に折られる。
なるほど、面白かったです。
2:40ごろに「萩城が大城郭」と説明されている。確かに天守閣の古写真をみると5階建てのようにみえるが、実際に萩城跡にいくと天守台の狭さに驚く。この寸法の天守台に写真の建物を建てた場合、三階建を五階建に見えるように偽装したか、建物としての実用性がないハリボテだったのではないかと思われる。ただ、街の北側は海であり、残る三方を松本川と橋本川にはさまれているため、それに沿って防衛線をはれば街全体を城郭化するのは容易い。さらに両河川は周囲の山肌近くを流れているため、敵軍が布陣する場所が限られてしまう利点もあるだろう。尤も、萩は「藩主の居城がある町」というだけで、毛利藩全体を運営するには山口や下関の方が重要地点であったと思われるので、萩築城もそこまで大掛かりにしなかったのではないだろうか。
何かの長州藩の地理の古文書に、城下の西北は韓海に連なる...という一節を見かけた記憶がございますが、かなり古い時代から長州藩領であった長門地方は外国船が沖を盛んに航行しておりました。郷土史の先生も李朝時代の韓国の漁民が遭難して長門海岸に漂着し、救助したという記録が何件もあったそうです。かつて鎌倉時代末期には蒙古襲来も経験し、その名残が浜殿祭(浜出祭)として現在に継承されております。また後年日露戦争時の日本海海戦も長門海岸沖が主戦場でした。その様な地理的条件であったことから、鎖国時代であっても外国船の脅威というものを現実的に恐怖として長州人のDNAに刻み混まれたのではと思います。勿論徳川憎しの思いもあったと思いますが、俺たちが次世代はこの国を担うんだと自覚した人達が多かったのだと考えます。それが八人もの総理大臣を出したという所にも少しは通じている?かどうかはわかりませんが....。
確かに、江戸時代の外国との窓口は長崎ばかりだと思いがちですが、長州藩領の長門国も朝鮮半島とはかなり距離は近いですものね。見落としがちな視点だと思います。
@@rekishock 様、返信有難うございました🙇山口県長門地方の方言の一つにちんぐうという言葉がございます。悪友親友とか飲み仲間とか、特に親しい間柄を言うのですが、これは韓国語で友達を表すチングそのままです。それほど山口県は大陸に近い所という証なんでしょうか?
日立グループの創始者久原房之助は藩都萩に近い須佐町(現萩市)出身。現代も長州人の絆は強し。
表向きは新政府の一員になって藩士を多数送り込んでるけど長州内部での集まりでは祝杯あげたりしてたのかな?討幕おめでとう㊗️関ヶ原のリベンジ達成的な
正直海外に追いつかなきゃいけないって時にそんな事してる暇は無いと思う
今の大河ドラマがあってか「毛利氏は大江広元氏の子孫」という事がかなり知れましたね
まあ、大江さんの子孫もあちこちにいたから、あんまり有り難みはないな。分家の分家の分家みたいな家だから伝わったアイテムとかもないし。
@@戸田賢司 吉川晃司が吉川家の分家の子孫みたいなもんw
神別土師氏→大江氏→大江(毛利)季光流→毛利家でオケ?
野見宿禰の子孫と言うのも、近現代には珍しい古氏族の系譜ですよね。
@@九曜ウサギホントがどうかは怪しいけど前田も土師の一族の菅原道真の子孫と自称。
敬親公悪く言う資料多いけど、ブレないし腹座っているし凄い!
上級武士と下級武士隔てなく接する姿勢はとても素晴らしい。吉田松陰を師と慕っていたそうな。
木戸孝允が版籍奉還について相談しに行ったときに「重要な事だから慎重に進めろよ」とアドバイスするそうせい候。絶対バカ殿じゃないですね
敬親公は容堂公よりは好感もてます。
そういや、昔、山口県の徳山(現周南市)に住んでいたころ、「毛利歯科」って歯医者があったなあ毛利家のご子孫の方だったのかなあ?
安国寺恵瓊や石田三成の奸計に嵌められた毛利輝元の腰の軽さが、中国地方の覇者から転落させた原因で、江戸幕府の下で、上手く立ち回って家を存続させたものだ。幕末のそうせい候、敬親の生きざまは好きですね👍
うちも武家で萩藩だったけれども、そんな感じはしなかったけれどもねものすごい大人しくって、おっとりとした感じでね。祖母だけれども広島から行ったのかはわからないのよ。ただ萩で武家と言えばね、みたいなでも大変だったんだろうとは思うわ。もう農民になっちゃってねもう許せない!とか絶対に上の人らにはあったんだろうとは思うものね毛利家は長い歴史ですからねやはり名誉のつくようなところは気をつけないと大変でしょうからね
戦国以来の大藩毛利家のお膝元、総理大臣も数多く輩出した山口だけど、47都道府県の中では影が薄いのは何故だろう……
まあ、伊藤博文をはじめ長州出身の奴らは、長州人からも嫌われていて、彼らは地元にはほとんど帰らなかった。なぜ嫌われていたかというと、彼らを支援した長州人を多数死したり死に追いやったり破滅させたからですよ。
260年近く正月に「徳川やっちゃいますか?やっちゃいましょうよ!!」「まだその時ではない」という茶番を続けてたのに潰されなかったというのはすごいと思います(*´∇`*) 暴れん坊将軍でも毛利は別格の対応を受けてましたが、本当に運のいい家系だったんでしょうね
薩長同盟組んだ年の正月にどんなやり取りがあったのか気になりますね。
あれはフィクション ほんとにそんなことしてたらとり潰されてます 別の行事の台詞を司馬遼太郎が変えただけです 江戸時代の毛利家は松平の称号を許されています 徳川を潰そうとしている大名に松平の称号を許すほど徳川の密偵、検察力は無能じゃありません
結局は関ヶ原前の伏見城に入ろうとした島津を追いかえした事が後の薩長同盟に結び付いたんですよね。この時に入場させてれば島津親子は死んだか、もし鳥居元忠が島津と力を合わせて守りきったら、それはそれで徳川家は島津家の扱いが違い最後まで公武一体路線で尊王攘夷路線の長州と協力は無かった。よって長州は賊軍で幕府と薩摩藩によって壊滅させられたでしょう。 その後は慶喜が総理大臣になり新政府を引っ張る事で大久保利通と西郷隆盛の亀裂も止められたかもしれないし、もしかしたら慶喜が征韓論を通して日露の前に朝鮮戦争をしてたかもしれない
伊能さんが、毛利家の土地測量の密約を受けていた?初耳、!
45年前ですがJALに毛利キャプテンがいらっしゃいました。直系かはお聞きしませんでしたが。
家系図から江戸時代後期の先祖が分かり天皇に関わる為、今上天皇の直系祖先のサイトで先祖が確認出来ます。毛利で検索しましたが天皇の直系祖先では無いようです。大江広元の4男の大江季光が神奈川の毛利の地名から毛利と名前を改めて毛利家の祖となります。大江広元の娘が公卿で歌人の飛鳥井雅経(あすかいまさつね)に嫁ぎ天皇家に繋がってます。鶴岡八幡宮は去年、源氏は経基か義朝迄が先祖と分かり初めてお参りしました。八幡宮近くに源頼朝と先祖の北条義時のお墓が有りお参りしましたが大江広元のお墓も近くに有りましたが先祖と知る前でスルーしましたので、近い内にお参りしたいです。先祖の子孫の話が詳しく聞けて有り難いです。
萩城も天守を再興して欲しい
自分の祖先を辿っても戦国時代まで行けない…
でもご先祖様ががんばって戦国時代生き残ったから今を生きてるのが?……君です
関ケ原の戦い以降減封された毛利家は徳川時代も密かに徳川への呪詛祈祷を行なっていたとも聞いた事があります。
なにが真実やら?話を面白く伝えるのが歴史である。幕府を術祖の件であるが、洞春寺に元就公と将軍家の位牌を祀りするくらいであるからあり得ない。むしろ秀元以降長州藩と幕府は幕末まで、蜜月状態であった。清末藩の設立、徳山藩のお家再興、長府藩の松の廊下事件の処遇等、数多くの幕府の長州藩に対する優遇姿勢がみられる。幕末の長州藩の倒幕運動はあくまでも時勢に鑑みた行動であった。
表立って呪詛なんかするわけないでしょ笑そんな事バレたら即お家取り潰しの憂き目に遭うのだから。どこの寺だか存じませんが元就と徳川の位牌を祀るというのはあくまでもカムフラージュと捉えるのが自然だと思いますよ。関ヶ原であれだけ石高減らされて徳川に媚び諂って260年もの間過ごせるとは到底思えませんね。貴方の憶測は憶測としてそう思われるのは勝手ですが断言はしない方がいいですよ!我々毛利家代々当主が徳川を呪詛してた論者もあくまで断定こそしてませんが普通に考えれば呪詛する動機はいくらでもありますからね。
徳川としては関ヶ原後毛利をどう処遇するのが正解だったんだろうね。旧領安堵?或いは取り潰し?
吉川と毛利に二つに分けて、例えば吉川には隠岐と出雲の領土保障+残りの領有して無い出雲の領土加増。版籍奉還を最初に言い出したのは和歌山藩。毛利は佐竹の代わりに出羽北部に減封か、土佐に伊予南半分のに減封とか?
@@長野業正-j9l 結果論とはいえ残す場合には転封すべきでしたね。あるいは毛利改易で吉川には周防長門を与え、毛利への移譲は認めないか。こうなれば毛利残党は徳川よりも吉川を恨むでしょう。
石田三成が悪いことにして豊臣政権を弱らせることに成功したことは徳川も毛利氏も同じ。一番は距離が離れているから、お互いの細かいことは気にしてないところ。
これは結果論でしかないけど、青森あたりに追いやってたら明治維新はなかったよね。
勝てば官軍だから、江戸時代は徳川家が、明治以降は毛利家が旨味を味わったのね🎉徳川家にとってペリー来航が蜂の一刺しになっちゃったかも😂
関ヶ原の恨みは関係ないと思いますよ。10代以上も交代してるわけですから。それに徳川に対しての恨みで戦争を起こしてるなら、攘夷派側が外国船砲撃したり、外国領事館に火をつけるなんてことは説明つかない気がしますね。
関ヶ原の時にちゃんと戦っていればよかったのに…
だったら吉川押し退けてでも攻めれば良かったのに。あと先祖の領地も殆ど祖父と父の代だからそんなに歴史あるわけじゃ無いんだけどね
長州人は執念深いからね~
戦国屈指の愚か者毛利輝元だが、幕府を倒せたのは彼の偉大な功績よ!もし120万石お咎めなしじゃ誰も関東に足向けて寢ることはないし、倒幕は起きない。
(人種としての有能さを客観的に見れば)そもそも倒幕はなくとも、日本は大国になっただろうがな今より良い状況も普通にあり得る
@@666fgd9 幕末期の幕府の醜態を知れば、果たして大国になり得たか分からんよな。四半世紀で強国にした維新政府よりも結果を出せたか?
毛利家の関ヶ原から続く徳川への恨み
本気で関が原で仕事せんからこんなことになったんじゃ、悪い見本じゃのう、反面教師として勉強させてもろうたわ。
この大幅減封は痛かったがこの転落劇で毛利輝元が大名として覚醒できたのも事実だろう。
1つ間違えてたら石田三成みたいに滅亡していたが徳川幕府を壊滅できたやはり采配は大事アンチ徳川をすべて仲間にしたのが正解だった
長州には平家終焉の地がある上に毛利家が西軍に属していたことに因縁を感じるただ毛利家自体は鎌倉幕府の重鎮の大江広元の子孫だけど…
自分はひいおばあちゃんが萩市でひいおじいちゃんが会津出身
当時はまだ戊辰戦争の遺恨が多少なりとも残っていたでしょうから、両家の挨拶の時にひと悶着あってもおかしくなさそうですね。
@@rekishock そうなんですよね!実際結婚したときまだ戊辰戦争から60年しかたってませんし
輝元が賢ければ、西軍総大将の立場を正しく理解して、秀頼と共に関ヶ原に行っただろうな。結局毛利家全員アホだっただけの話。豊臣家を守ればさらに加増されたのになぁw。
藩主や家老は別に恨みとかなさそうなのにね底辺藩士がそこに添加するんだよな
薩長土肥って最近なにやってるんだろうなぁ。
長州藩の最後でなんで西郷隆盛?
他の回でも、エンディングは全て西郷さん☝️
実家に元徳公が遊びにきたこともあり、サインなども残ってます。
小悪党輝元くんの自己責任なんだよなぁ関ヶ原は…
多彩
戦が終わって太平の世の中になっても武士道を貫くには進歩した時代意識こそが大敵になるからね。
初代がアホなだけなのだが、さすがに初代をアホとは言えないから吉川さんが割りを食った。
藩祖を悪く言えませんからね…吉川家は白い目で見られたそうですし…
@@あーきー-u2n アイツは、若い内はじいさん(元就)、中年期は叔父二人(元春、隆景)のアドバイスを聞けたからボロが出なかっただけで、所詮家康と戦えるような器ではないからな。
政治家としては味噌がついたが、行政家としては有能なんよ。
@@長野業正-j9l 味噌が付いたじゃすまないがな。ヘタレが少しぐらい内政頑張っても、ヘタレのレッテルは未来永劫消えないから。
初代って輝元公の事か、元就公かと思ったわ、元就公は知略がずば抜けた天才謀略家だったけど、隆元、輝元は上手く受け継がれなかったんよな
矢張り無理矢理でも毛利家は、吉川家と毛利に分割させて転封させるべきだったな。元々秀元が跡取りだしな。
秀元は虫の子の子やからな。
関ヶ原もっと真剣に戦えば?光成が泣いてるわ。
光成じゃなくて三成な
戦う前から外交勝負で決着が既についてた。指揮官として実力云々以前に、政治家としては足元にも及ばなかったから。あと誤解されがちだが、広家と家康の密約は輝元も承知していた。というよりも、寧ろ一部の生臭とか一部の重臣を除けば輝元を筆頭に常に徳川家康に付く機会を伺っていた。小早川秀秋も徳川家康に付いた主要因の一つは、送り込まれた養子とはいえ、家臣団の多くは従来の小早川毛利家臣団なので、宗家たる毛利の意向を無視出来ないから。
@@長野業正-j9l 日本史学者の間でも統一見解の出ていない話であるのになぜ断定口調の主張ができるのか……具体的には、どの資料に基づいた主張ですか??
@@atoyr-t4c 三成でしたか…すいませんでした
みせしめと思われる、会津は(T . T)会津に非はなかったと思われるのですが、どう考察されますか❓明治政府憎し、ではありませんが、義に生きたと思われ💦
山口からは、毛利の、血筋の政治家は、出ないのでしょうか、錦帯橋も世界遺産になるほど素晴らしいのに、残念
表に出てきた、毛利家、六本木に立派な毛利ビルを立て、総理に安倍さんをたて、影響力をだしたが、会津のしっこい、妨害は今も変わらない、未だに有るからね、知る人ぞ知るだ。
六本木のテレ朝前の毛利庭園は、ちょっといいね。ここで、乃木希典も幼少時代をすごしたとか。
最近話題のビックモーターも、六本木ヒルズ森ビルの中にありますね。You Tubeで事件ものの動画観てると、未だに山口県熊毛郡田布施町云々って書き込み見かけますね。なかなか根深い。
関ヶ原の戦いの総大将を引き受けて残念な結果を招きましたから!(≧∇≦)b
わたしは萩生まれですが福島県の人達には申し訳ないなとおもって福島県には行くことができません
輝元の優柔不断が敗因だけどこの恨みが明治維新になるのだからよくわからないな。
吉川広家が腹を切らなかったというのは有り得ない
広家公には一切の瑕疵が無い。最終的に徳川家康と繋がるのは輝元公自身が決めた事。広家公がしたのは外交窓口と輝元公の下で毛利家内の意見統一。
腹を切ったら毛利家が潰れるじゃないですか。周囲から冷たい目で見られようと生き続ける以外の選択肢がありますか?西軍総大将の資格と権限で毛利輝元が四国のあちこちの征服を企図していた以上、負ければ潰されてもおかしくはない。そこに思い至らないで決戦に臨席しなかった輝元の判断が甘かったというほかありませんよ
有り得ない理由を教えてほしい
広家は功労者で合って、無能な毛利家
@@得川康勝 ということなんだ!わかってくれたかな?
毛利元昭ちょっと大泉洋に似てるな
しかし 恨み晴らしたかと思ったとたんに 廃藩置県。(笑)
大正時代じゃなくて大正期
言い方は悪いが「火事場泥棒的」な活動だけあってその天下、優位性はあまり長続きしなかったな
毛利家の発祥の地が神奈川県厚木市だったと聞いてもピンとこない鎌倉御家人だったんやね
@@岩本舜吾-h3b 文章の理解力がないのかな?その季光が相模国毛利庄に土地を貰って毛利氏を名乗ったんでしょ?
大江広元の息子らしいですね
輝元を無能無能言う人はちゃんと調べてない人たちだと思う
ご先祖さんらが優柔不断、日和見、家中で意思統一出来て無かったんやから怨む方向が間違ってる。て、言うか小早川含め毛利一党は西軍諸将に怨まれてるやろw
華族って大名家のことか。差別したとか言ってもねぇ。
単なる逆恨みに見える
中国地方の城って、綺麗じゃない?他の地域と比べて。
小学低学年の頭の毛利、
閉ざされた薄暗い日本🇯🇵から、開かれた文明開花の日本🇯🇵に西日本より導いた毛利、島津に万歳🙌
お前まだそれを信じているのか?
尊王と言いながら御所に大砲ぶち込む矛盾
長州藩って、毛利だったんですね、かっこいいです。島津も大阪冬、夏の陣参加してません。関ヶ原でアホくさエライ目に会いましたからね。その後も参勤交代やら木曽川難工事やらやらされ、財産削がれて恨みしか無いわ。
勝手に日和って改易されたくせに逆恨み
有鉤条虫
これほとんど幕末から明治初期の作り話ですよ。あまり根拠がありません。自分たちの失策を徳川家が悪いというのは幕末に言い始め、幕府と戦っていました。このせいでさらに窮地に追い込まれます。
毛利、優柔不断な一族❗逆恨みもいいとこです。関ヶ原の敗戦で本来なら改易かつ輝元が切腹になっても当然の立場だったのに、2ヶ国も安堵されて感謝するどころか恨みを抱くのは呆れた外道以下の一族だ‼️剣道三段高3JKより
改易しようとしたら、流石に死ぬ気で抵抗するから戦争が長期化して、それこそ当時領内が反乱が起きて混乱してた島津領も含め九州は官兵衛の手に落ちた可能性がある。実際に東北の上杉景勝は1603年まで戦い続けたし。最上も奮闘していたけど、上杉との戦いとは別に伊達政宗が暗躍して南部家に手を伸ばして、危機に立たされたのを名前がやたら注目される事で有名な南部家の名将にして宿老北信愛が寡兵で撃退したりとか。佐竹一族や相馬も怪しい兆候を見せていたので、毛利を滅ぼすまで戦う余裕は家康公には当時無かったのが真相。
何が外道以下だよ。鼻につくわ。
優柔不断× この機に乗じて西日本全域への勢力拡大を狙ったが予想より早期に決着が付いた○ヤクザ同士の抗争で、「これくらいで勘弁してやらあ」と言われて感謝するヤクザがいますか?徳川にしたって最後まで外様を信用してないのだから、お互い様です
幕府を倒したのは良いが、その後首都を東京に移したのが大失敗だった。
関ヶ原においては、あれほど元就が和をといたというに、輝元(秀元)、広家、秀秋がバラバラ。毛利は自滅したのだ。それを徳川のせいにするとはどういう了見だ。その後も一族の争いが絶えず、名だたる君主は存在せず。小早川隆景の死をもって、元就の意図する毛利家は終わったのだ。
安芸武田家の意地やろ。
そして、バラバラになった毛利家を再び一つに纏めたのが毛利敬親という男
加藤剛の関ヶ原を見て以来、石田三成を尊敬しております。関ヶ原で裏切った薩摩と吉川、小早川は許すわけにはいきません。薩摩と長州は関ヶ原での自分の行いを反省せず、逆に恨んでいたとは笑止千万。今でも薩摩と長州の人間は信用できません。
どうも毛利の末裔です
素晴らしい動画をありがとうございます。
湘南でレストランをやっていたのですが
元栄さんが奥様とお子様と3人で毎週来てくださってました。
世が世ならの方なのかもしれませんが
腰が低く大変な人格者です。
今はひと月に一度程度お話しをするくらいになりましたが
お子様ラヴのイケメンお父様です。
記念館の館長も務められたそうですが
TV番組でお堀の水を抜かれたのは知らなかったようでしたー。
素晴らしいご縁ですね!
さすが元公爵家の御当主といったところでしょうか。
幕末前に長州藩は莫大な借金と大規模な一揆でピンチな状態で、そうせい公の毛利敬親が藩主に就任して村田清風を登用して藩政改革を行い財政を豊かにして経済力では百万石並みの財力を持って第二次長州征伐前に薩摩藩から海援隊経由で欧米列強から武器を購入し幕府軍に勝利して関ヶ原の復讐をして明治維新を成し遂げた。
そして、賊軍藩石原、板垣、東條らは長州支配体制打破を目指し復讐を試みるも失敗、アメリカ幕府が誕生した。
我是台灣人,長州藩與台灣關係無比深厚!
敬親は本家の血筋を輝元系に戻すためにわざわざ元徳を徳山藩から自分の後継ぎに迎えて毛利家を再び一つに纏めたことを忘れてはいけない
関ヶ原の戦いでの西軍内通は、これ迄輝元公は知らず吉川広家が他家臣と内々に進められたと思ってましたが…。輝元公承知の上の内通と知りました。
吉川広家が毛利の先陣を努める世界線の関ヶ原見てみたいなあ
長州藩は藩主機関制を早期に成立させたから藩主親政なんて殆ど行われていない
その象徴が「そうせい侯」
大坂城に詰めていた輝元が秀頼を連れて、関ヶ原に援軍として出張っていれば、関ヶ原の戦いの結果は大きく変わっていただろうに、、、
秀頼、輝元、前田利政、上杉景勝、真田親子が関ケ原にいたら島津も戦ったし秀家も攻め込めたし小早川も寝返らなかった
淀殿が引き留めたと聞きかじりましたが、大阪の陣でも似たことをやっているので、関ヶ原も大阪も戦犯は淀殿なんですよね。
その場では勝っただろう。後、関ケ原で家康を仕留める事ができるか否かで展開が大きく変わるだろう。
両川である、小早川は手を離れ、吉川は徳川に騙された、三本の矢でなくなれば、簡単に折られる。
なるほど、面白かったです。
2:40ごろに「萩城が大城郭」と説明されている。
確かに天守閣の古写真をみると5階建てのようにみえるが、実際に萩城跡にいくと天守台の狭さに驚く。
この寸法の天守台に写真の建物を建てた場合、三階建を五階建に見えるように偽装したか、建物としての実用性がないハリボテだったのではないかと思われる。
ただ、街の北側は海であり、残る三方を松本川と橋本川にはさまれているため、それに沿って防衛線をはれば街全体を城郭化するのは容易い。さらに両河川は周囲の山肌近くを流れているため、敵軍が布陣する場所が限られてしまう利点もあるだろう。
尤も、萩は「藩主の居城がある町」というだけで、毛利藩全体を運営するには山口や下関の方が重要地点であったと思われるので、萩築城もそこまで大掛かりにしなかったのではないだろうか。
何かの長州藩の地理の古文書に、城下の西北は韓海に連なる...という一節を見かけた記憶がございますが、かなり古い時代から長州藩領であった長門地方は外国船が沖を盛んに航行しておりました。郷土史の先生も李朝時代の韓国の漁民が遭難して長門海岸に漂着し、救助したという記録が何件もあったそうです。かつて鎌倉時代末期には蒙古襲来も経験し、その名残が浜殿祭(浜出祭)として現在に継承されております。また後年日露戦争時の日本海海戦も長門海岸沖が主戦場でした。その様な地理的条件であったことから、鎖国時代であっても外国船の脅威というものを現実的に恐怖として長州人のDNAに刻み混まれたのではと思います。勿論徳川憎しの思いもあったと思いますが、俺たちが次世代はこの国を担うんだと自覚した人達が多かったのだと考えます。それが八人もの総理大臣を出したという所にも少しは通じている?かどうかはわかりませんが....。
確かに、江戸時代の外国との窓口は長崎ばかりだと思いがちですが、長州藩領の長門国も朝鮮半島とはかなり距離は近いですものね。
見落としがちな視点だと思います。
@@rekishock 様、返信有難うございました🙇
山口県長門地方の方言の一つにちんぐうという言葉がございます。
悪友親友とか飲み仲間とか、特に親しい間柄を言うのですが、これは韓国語で友達を表すチングそのままです。それほど山口県は大陸に近い所という証なんでしょうか?
日立グループの創始者久原房之助は藩都萩に近い須佐町(現萩市)出身。現代も長州人の絆は強し。
表向きは新政府の一員になって藩士を多数送り込んでるけど
長州内部での集まりでは祝杯あげたりしてたのかな?
討幕おめでとう㊗️関ヶ原のリベンジ達成的な
正直海外に追いつかなきゃいけないって時にそんな事してる暇は無いと思う
今の大河ドラマがあってか「毛利氏は大江広元氏の子孫」という事がかなり知れましたね
まあ、大江さんの子孫もあちこちにいたから、あんまり有り難みはないな。分家の分家の分家みたいな家だから伝わったアイテムとかもないし。
@@戸田賢司 吉川晃司が吉川家の分家の子孫みたいなもんw
神別土師氏→大江氏→大江(毛利)季光流→毛利家でオケ?
野見宿禰の子孫と言うのも、近現代には珍しい古氏族の系譜ですよね。
@@九曜ウサギホントがどうかは怪しいけど前田も土師の一族の菅原道真の子孫と自称。
敬親公悪く言う資料多いけど、ブレないし腹座っているし凄い!
上級武士と下級武士隔てなく接する姿勢はとても素晴らしい。
吉田松陰を師と慕っていたそうな。
木戸孝允が版籍奉還について相談しに行ったときに「重要な事だから慎重に進めろよ」とアドバイスするそうせい候。絶対バカ殿じゃないですね
敬親公は容堂公よりは好感もてます。
そういや、昔、山口県の徳山(現周南市)に住んでいたころ、「毛利歯科」って歯医者があったなあ
毛利家のご子孫の方だったのかなあ?
安国寺恵瓊や石田三成の奸計に嵌められた毛利輝元の腰の軽さが、中国地方の覇者から転落させた原因で、江戸幕府の下で、上手く立ち回って家を存続させたものだ。幕末のそうせい候、敬親の生きざまは好きですね👍
うちも武家で萩藩だったけれども、そんな感じはしなかったけれどもね
ものすごい大人しくって、おっとりとした感じでね。祖母だけれども
広島から行ったのかはわからないのよ。ただ萩で武家と言えばね、みたいな
でも大変だったんだろうとは思うわ。もう農民になっちゃってね
もう許せない!とか絶対に上の人らにはあったんだろうとは思うものね
毛利家は長い歴史ですからね
やはり名誉のつくようなところは気をつけないと大変でしょうからね
戦国以来の大藩毛利家のお膝元、総理大臣も数多く輩出した山口だけど、47都道府県の中では影が薄いのは何故だろう……
まあ、伊藤博文をはじめ長州出身の奴らは、長州人からも嫌われていて、彼らは地元にはほとんど帰らなかった。
なぜ嫌われていたかというと、彼らを支援した長州人を多数死したり死に追いやったり破滅させたからですよ。
260年近く正月に「徳川やっちゃいますか?やっちゃいましょうよ!!」「まだその時ではない」という茶番を続けてたのに潰されなかったというのはすごいと思います(*´∇`*)
暴れん坊将軍でも毛利は別格の対応を受けてましたが、本当に運のいい家系だったんでしょうね
薩長同盟組んだ年の正月にどんなやり取りがあったのか気になりますね。
あれはフィクション ほんとにそんなことしてたらとり潰されてます 別の行事の台詞を司馬遼太郎が変えただけです 江戸時代の毛利家は松平の称号を許されています 徳川を潰そうとしている大名に松平の称号を許すほど徳川の密偵、検察力は無能じゃありません
結局は関ヶ原前の伏見城に入ろうとした島津を追いかえした事が後の薩長同盟に結び付いたんですよね。
この時に入場させてれば島津親子は死んだか、もし鳥居元忠が島津と力を合わせて守りきったら、それはそれで徳川家は島津家の扱いが違い最後まで公武一体路線で尊王攘夷路線の長州と協力は無かった。
よって長州は賊軍で幕府と薩摩藩によって壊滅させられたでしょう。 その後は慶喜が総理大臣になり新政府を引っ張る事で大久保利通と西郷隆盛の亀裂も止められたかもしれないし、もしかしたら慶喜が征韓論を通して日露の前に朝鮮戦争をしてたかもしれない
伊能さんが、毛利家の土地測量の密約を受けていた?
初耳、!
45年前ですがJALに毛利キャプテンがいらっしゃいました。直系かはお聞きしませんでしたが。
家系図から江戸時代後期の先祖が分かり天皇に関わる為、今上天皇の直系祖先のサイトで先祖が確認出来ます。
毛利で検索しましたが天皇の直系祖先では無いようです。大江広元の4男の大江季光が神奈川の毛利の地名から毛利と名前を改めて毛利家の祖となります。大江広元の娘が公卿で歌人の飛鳥井雅経(あすかいまさつね)に嫁ぎ天皇家に繋がってます。鶴岡八幡宮は去年、源氏は経基か義朝迄が先祖と分かり初めてお参りしました。八幡宮近くに源頼朝と先祖の北条義時のお墓が有りお参りしましたが大江広元のお墓も近くに有りましたが先祖と知る前でスルーしましたので、近い内にお参りしたいです。
先祖の子孫の話が詳しく聞けて有り難いです。
萩城も天守を再興して欲しい
自分の祖先を辿っても戦国時代まで行けない…
でもご先祖様ががんばって戦国時代生き残ったから今を生きてるのが?……君です
関ケ原の戦い以降減封された毛利家は徳川時代も密かに徳川への呪詛祈祷を行なっていたとも聞いた事があります。
なにが真実やら?話を面白く伝えるのが歴史である。幕府を術祖の件であるが、洞春寺に元就公と将軍家の位牌を祀りするくらいであるからあり得ない。むしろ秀元以降長州藩と幕府は幕末まで、蜜月状態であった。清末藩の設立、徳山藩のお家再興、長府藩の松の廊下事件の処遇等、数多くの幕府の長州藩に対する優遇姿勢がみられる。幕末の長州藩の倒幕運動はあくまでも時勢に鑑みた行動であった。
表立って呪詛なんかするわけないでしょ笑
そんな事バレたら即お家取り潰しの憂き目に遭うのだから。
どこの寺だか存じませんが元就と徳川の位牌を祀るというのはあくまでもカムフラージュと捉えるのが自然だと思いますよ。
関ヶ原であれだけ石高減らされて徳川に媚び諂って260年もの間過ごせるとは到底思えませんね。
貴方の憶測は憶測としてそう思われるのは勝手ですが断言はしない方がいいですよ!
我々毛利家代々当主が徳川を呪詛してた論者もあくまで断定こそしてませんが普通に考えれば呪詛する動機はいくらでもありますからね。
徳川としては関ヶ原後毛利をどう処遇するのが正解だったんだろうね。
旧領安堵?或いは取り潰し?
吉川と毛利に二つに分けて、例えば吉川には隠岐と出雲の領土保障+残りの領有して無い出雲の領土加増。
版籍奉還を最初に言い出したのは和歌山藩。
毛利は佐竹の代わりに出羽北部に減封か、土佐に伊予南半分のに減封とか?
@@長野業正-j9l
結果論とはいえ残す場合には転封すべきでしたね。
あるいは毛利改易で吉川には周防長門を与え、毛利への移譲は認めないか。
こうなれば毛利残党は徳川よりも吉川を恨むでしょう。
石田三成が悪いことにして豊臣政権を弱らせることに成功したことは徳川も毛利氏も同じ。一番は距離が離れているから、お互いの細かいことは気にしてないところ。
これは結果論でしかないけど、青森あたりに追いやってたら明治維新はなかったよね。
勝てば官軍だから、江戸時代は徳川家が、明治以降は毛利家が旨味を味わったのね🎉徳川家にとってペリー来航が蜂の一刺しになっちゃったかも😂
関ヶ原の恨みは関係ないと思いますよ。10代以上も交代してるわけですから。
それに徳川に対しての恨みで戦争を起こしてるなら、攘夷派側が外国船砲撃したり、外国領事館に火をつけるなんてことは
説明つかない気がしますね。
関ヶ原の時にちゃんと戦っていればよかったのに…
だったら吉川押し退けてでも攻めれば良かったのに。
あと先祖の領地も殆ど祖父と父の代だからそんなに歴史あるわけじゃ無いんだけどね
長州人は執念深いからね~
戦国屈指の愚か者毛利輝元だが、幕府を倒せたのは彼の偉大な功績よ!もし120万石お咎めなしじゃ誰も関東に足向けて寢ることはないし、倒幕は起きない。
(人種としての有能さを客観的に見れば)
そもそも倒幕はなくとも、日本は大国になっただろうがな
今より良い状況も普通にあり得る
@@666fgd9 幕末期の幕府の醜態を知れば、果たして大国になり得たか分からんよな。四半世紀で強国にした維新政府よりも結果を出せたか?
毛利家の関ヶ原から続く徳川への恨み
本気で関が原で仕事せんからこんなことになったんじゃ、悪い見本じゃのう、反面教師として勉強させてもろうたわ。
この大幅減封は痛かったがこの転落劇で毛利輝元が大名として覚醒できたのも事実だろう。
1つ間違えてたら石田三成みたいに滅亡していたが徳川幕府を壊滅できたやはり采配は大事アンチ徳川をすべて仲間にしたのが正解だった
長州には平家終焉の地がある上に毛利家が西軍に属していたことに因縁を感じる
ただ毛利家自体は鎌倉幕府の重鎮の大江広元の子孫だけど…
自分はひいおばあちゃんが萩市でひいおじいちゃんが会津出身
当時はまだ戊辰戦争の遺恨が多少なりとも残っていたでしょうから、両家の挨拶の時にひと悶着あってもおかしくなさそうですね。
@@rekishock そうなんですよね!実際結婚したときまだ戊辰戦争から60年しかたってませんし
輝元が賢ければ、西軍総大将の立場を正しく理解して、秀頼と共に関ヶ原に行っただろうな。結局毛利家全員アホだっただけの話。豊臣家を守ればさらに加増されたのになぁw。
藩主や家老は別に恨みとかなさそうなのにね
底辺藩士がそこに添加するんだよな
薩長土肥って最近なにやってるんだろうなぁ。
長州藩の最後でなんで西郷隆盛?
他の回でも、エンディングは全て西郷さん☝️
実家に元徳公が遊びにきたこともあり、サインなども残ってます。
小悪党輝元くんの自己責任なんだよなぁ関ヶ原は…
多彩
戦が終わって太平の世の中になっても武士道を貫くには進歩した時代意識こそが大敵になるからね。
初代がアホなだけなのだが、さすがに初代をアホとは言えないから吉川さんが割りを食った。
藩祖を悪く言えませんからね…
吉川家は白い目で見られたそうですし…
@@あーきー-u2n
アイツは、若い内はじいさん(元就)、中年期は叔父二人(元春、隆景)のアドバイスを聞けたからボロが出なかっただけで、所詮家康と戦えるような器ではないからな。
政治家としては味噌がついたが、行政家としては有能なんよ。
@@長野業正-j9l
味噌が付いたじゃすまないがな。ヘタレが少しぐらい内政頑張っても、ヘタレのレッテルは未来永劫消えないから。
初代って輝元公の事か、元就公かと思ったわ、元就公は知略がずば抜けた天才謀略家だったけど、隆元、輝元は上手く受け継がれなかったんよな
矢張り無理矢理でも毛利家は、吉川家と毛利に分割させて転封させるべきだったな。
元々秀元が跡取りだしな。
秀元は虫の子の子やからな。
関ヶ原もっと真剣に戦えば?
光成が泣いてるわ。
光成じゃなくて三成な
戦う前から外交勝負で決着が既についてた。
指揮官として実力云々以前に、政治家としては足元にも及ばなかったから。
あと誤解されがちだが、広家と家康の密約は輝元も承知していた。
というよりも、寧ろ一部の生臭とか一部の重臣を除けば輝元を筆頭に常に徳川家康に付く機会を伺っていた。
小早川秀秋も徳川家康に付いた主要因の一つは、送り込まれた養子とはいえ、家臣団の多くは従来の小早川毛利家臣団なので、宗家たる毛利の意向を無視出来ないから。
@@長野業正-j9l 日本史学者の間でも統一見解の出ていない話であるのになぜ断定口調の主張ができるのか……
具体的には、どの資料に基づいた主張ですか??
@@atoyr-t4c 三成でしたか…すいませんでした
みせしめと思われる、会津は(T . T)会津に非はなかったと思われるのですが、どう考察されますか❓明治政府憎し、ではありませんが、義に生きたと思われ💦
山口からは、毛利の、血筋の政治家は、出ないのでしょうか、錦帯橋も世界遺産になるほど素晴らしいのに、残念
表に出てきた、毛利家、六本木に立派な毛利ビルを立て、総理に安倍さんをたて、影響力をだしたが、会津のしっこい、妨害は今も変わらない、未だに有るからね、知る人ぞ知るだ。
六本木のテレ朝前の毛利庭園は、ちょっといいね。ここで、乃木希典も幼少時代をすごしたとか。
最近話題のビックモーターも、六本木ヒルズ森ビルの中にありますね。
You Tubeで事件ものの動画観てると、未だに山口県熊毛郡田布施町云々って書き込み見かけますね。なかなか根深い。
関ヶ原の戦いの
総大将を引き受けて
残念な結果を招きましたから!
(≧∇≦)b
わたしは萩生まれですが福島県の人達には申し訳ないなとおもって福島県には行くことができません
輝元の優柔不断が敗因だけどこの恨みが明治維新になるのだからよくわからないな。
吉川広家が腹を切らなかったというのは有り得ない
広家公には一切の瑕疵が無い。
最終的に徳川家康と繋がるのは輝元公自身が決めた事。
広家公がしたのは外交窓口と輝元公の下で毛利家内の意見統一。
腹を切ったら毛利家が潰れるじゃないですか。周囲から冷たい目で見られようと生き続ける以外の選択肢がありますか?
西軍総大将の資格と権限で毛利輝元が四国のあちこちの征服を企図していた以上、負ければ潰されてもおかしくはない。そこに思い至らないで決戦に臨席しなかった輝元の判断が甘かったというほかありませんよ
有り得ない理由を教えてほしい
広家は功労者で合って、無能な毛利家
@@得川康勝 ということなんだ!わかってくれたかな?
毛利元昭ちょっと大泉洋に似てるな
しかし 恨み晴らしたかと思ったとたんに 廃藩置県。(笑)
大正時代じゃなくて大正期
言い方は悪いが「火事場泥棒的」な活動だけあってその天下、優位性は
あまり長続きしなかったな
毛利家の発祥の地が神奈川県厚木市だったと聞いてもピンとこない
鎌倉御家人だったんやね
@@岩本舜吾-h3b
文章の理解力がないのかな?
その季光が相模国毛利庄に土地を貰って毛利氏を名乗ったんでしょ?
大江広元の息子らしいですね
輝元を無能無能言う人はちゃんと調べてない人たちだと思う
ご先祖さんらが優柔不断、日和見、家中で意思統一出来て無かったんやから怨む方向が間違ってる。
て、言うか小早川含め毛利一党は西軍諸将に怨まれてるやろw
華族って大名家のことか。差別したとか言ってもねぇ。
単なる逆恨みに見える
中国地方の城って、綺麗じゃない?
他の地域と比べて。
小学低学年の頭の毛利、
閉ざされた薄暗い日本🇯🇵から、開かれた文明開花の日本🇯🇵に西日本より導いた毛利、島津に万歳🙌
お前まだそれを信じているのか?
尊王と言いながら御所に大砲ぶち込む矛盾
長州藩って、毛利だったんですね、かっこいいです。島津も大阪冬、夏の陣参加してません。関ヶ原でアホくさエライ目に会いましたからね。その後も参勤交代やら木曽川難工事やらやらされ、財産削がれて恨みしか無いわ。
勝手に日和って改易されたくせに逆恨み
有鉤条虫
これほとんど幕末から明治初期の作り話ですよ。あまり根拠がありません。自分たちの失策を徳川家が悪いというのは幕末に言い始め、幕府と戦っていました。このせいでさらに窮地に追い込まれます。
毛利、優柔不断な一族❗逆恨みもいいとこです。関ヶ原の敗戦で本来なら改易かつ輝元が切腹になっても当然の立場だったのに、2ヶ国も安堵されて感謝するどころか恨みを抱くのは呆れた外道以下の一族だ‼️
剣道三段高3JKより
改易しようとしたら、流石に死ぬ気で抵抗するから戦争が長期化して、それこそ当時領内が反乱が起きて混乱してた島津領も含め九州は官兵衛の手に落ちた可能性がある。
実際に東北の上杉景勝は1603年まで戦い続けたし。最上も奮闘していたけど、上杉との戦いとは別に伊達政宗が暗躍して南部家に手を伸ばして、危機に立たされたのを名前がやたら注目される事で有名な南部家の名将にして宿老北信愛が寡兵で撃退したりとか。
佐竹一族や相馬も怪しい兆候を見せていたので、毛利を滅ぼすまで戦う余裕は家康公には当時無かったのが真相。
何が外道以下だよ。鼻につくわ。
優柔不断× この機に乗じて西日本全域への勢力拡大を狙ったが予想より早期に決着が付いた○
ヤクザ同士の抗争で、「これくらいで勘弁してやらあ」と言われて感謝するヤクザがいますか?
徳川にしたって最後まで外様を信用してないのだから、お互い様です
幕府を倒したのは良いが、その後首都を東京に移したのが大失敗だった。
関ヶ原においては、あれほど元就が和をといたというに、輝元(秀元)、広家、秀秋がバラバラ。
毛利は自滅したのだ。それを徳川のせいにするとはどういう了見だ。
その後も一族の争いが絶えず、名だたる君主は存在せず。
小早川隆景の死をもって、元就の意図する毛利家は終わったのだ。
安芸武田家の意地やろ。
そして、バラバラになった毛利家を再び一つに纏めたのが毛利敬親という男
加藤剛の関ヶ原を見て以来、石田三成を尊敬しております。関ヶ原で裏切った薩摩と吉川、小早川は許すわけにはいきません。薩摩と長州は関ヶ原での自分の行いを反省せず、逆に恨んでいたとは笑止千万。今でも薩摩と長州の人間は信用できません。
どうも毛利の末裔です